新説・日本書紀⑨ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)5月12日 土曜日
神武東征④ 香春で即位、倭王朝成る
筑豊を平定、筑紫に凱旋
中国の正史に神武東征の記録はない。ただ、「後漢書」東夷伝に次の一文がある。「永初に逮り多難となり、始めて寇鈔に入る」。永初元年に当たる107年は「倭国王が安帝に生口160人を献上した」年。その永初年間から多難となり、初めて「各地の反乱に対し攻撃」しなければならなくなったとの意味だ。神武東征は、この安帝の在位期間(107~125)後半に起きた倭国内の反乱ではないか。
119年2月、「諸将に命じ士卒を選ぶ」。倭奴国を滅ぼした神武は各地の残党を掃討する。「層富県の波哆丘岬に、新城戸畔という者有り」。添田町の畑・下の畑・畑川の先に新城という地名があり、近くの台地に金ノ原弥生遺跡が残る。神武は「偏師(一部の軍)を派遣し、この土蜘蛛を滅ぼした」。和珥の坂本の居勢の祝、臍見の長柄丘岬の猪祝、高尾張邑の各地の土蜘蛛も同様に誅殺しているが、場所は不詳だ。
同年3月、神武は「東征を始めてから6年、ようやく中洲の地が平和になった。あの畝傍山(=香春一ノ岳)の東南の地は、思うに国の中心か。皇都を開くべきだ」と言い、役人に命じて宮殿を造り始めた。
この後、射手引神社社伝によれば、神武は陸路で筑紫に凱旋する。笠置山(宮若、飯塚両市の境)で天祖を祭り、飯塚市伊岐須に降り、同市の潤野を経て、同市高田の高祖神社に入る。ここで、筑紫から田中熊別が来て神武を迎えたとある。さらに大分八幡(飯塚市大分)、同市山口(「皇軍戦勝休養の地」がある)を過ぎ、米ノ山峠から宝満山(太宰府市の竈門山)に凱旋した。神武は「登山して御母君(玉依姫)の霊位を祭った」とある。
次に、田中庄(大野城市王城山辺り。田中熊別を祭る王城神社があった)に入り、荒木武彦に迎えられ、蚊田の里(宇美町の宇美八幡神社)に行く。宇美八幡神社には「荒木の女志津姫が蚊田皇子を生み奉った地」との伝承が残る。ここから篠栗町の若杉山を経て香春に戻ったようだ。
「おほきんさん」に眠る
120年8月、「天皇、正妃を立てむとす」。9月に「媛蹈鞴五十鈴媛命を召し入れ正妃とする」。121年正月、「天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后となさる。皇子神八井命・神渟名川耳尊をお生みになる」。
神武即位の月日を太陽暦に直すと2月11日。建国記念の日だ。橿原宮が畝尾山(香春一ノ岳)東南なら、香春町高野の鶴岡八幡神社が有力候補地となる。日本書紀では畝傍の橿原に即位した神武を「始めて天の下を馭しめしし(お治めになった)天皇を、号けて神日本磐余彦火火出見天皇と申し上げた」と記している。
122年2月、「天皇は手柄を定め袋美を下賜された」。大来目を畝傍山西部の川辺(田川市夏吉辺り)に居住させ、珍彦を倭の国造とした。弟猾には猛田邑(川崎町)を与え、弟磯城を磯城県(飯塚市立岩)主とした。「頭八咫烏も賞の例に入る」とあり、添田町・赤村(飛ぶ鳥の明日香)を下賜されたのだろう。124年2月、「霊畤を鳥見山(福智山、鳥野神社の前身か)の中に立て天神を祭る」。倭奴国の王族の霊を鎮魂したようだ。136年、神武崩御。享年67。137年に「畝傍山東北陵」(香春町の「おほきんさん」)に葬られた。
日本書紀や現地の伝承を読み解き、筑豊での実地調査を重ねて導き出した神武天皇の香春即位と田川での倭王朝成立。定説からはほど遠い仮説だが、筑豊各地にちらばる多くの情報の点は、それぞれ必然性のある線としてつながり、隠された真の歴史の姿を編み出したのだ。
次回は5月26日に掲載予定です
畝傍東北陵と推定される香春町の「おほきんさん」
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